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【日高屋】神田会長の神っぷりは母の影響!

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赤字20億円でもボーナス支給、「不景気だからこそ」進める新規開拓。

ガイアの夜明けで紹介された日高屋会長の神田さん。

会長でありながら、いまだに店舗候補地の視察に飛び回るそうです。

異様なほど謙虚な神田会長ですが、神田さんのお母様の影響がありました。

Contents

幼少期

神田正会長は1973年に「来々軒」、1978年日高商事を立ち上げて東証二部上場させました。

当時のラーメン店といえば個人経営なので、上場するのはすごいことなんですよ。

幼少時は苦難の連続でしたが、神田さんの人格形成に影響を与えました。

母を助けて働く

神田会長のお名前は「神田正」さん。
埼玉県高萩村(日高市)出身で、持ち家もないほどの貧乏だったそうです。

父である金重(きんじゅう)さんが従軍した時に胸部を負傷したからです。

そのため、母であるなかさんが神田さんたち4人の兄弟を育てていました。

食事はサツマイモ、たまの米は7割麦という質素な生活をしながら、親戚の家に一時的に住んでいました。

なかさんの努力の甲斐あって一軒家を手に入れますが、ボロボロのバラックなのを同級生にバカにされてイヤだったと神田さんは回想しています。

神田さんをバカにしていた同級生も、きっと今は驚いているでしょうね。

キャディーとして働く

なかさんは霞が関カンツリー俱楽部でキャディーの仕事をはじめました。

ゴルフバッグって意外と重くて、肩に担ごうとするとよろけてしまったりします。

そうした重い荷物を持ってコースを6時間かけて回り、しかも徒歩で通勤。

家事までこなしていたというので、物静かながらとんでもないバイタリティーをもった方だったのでしょう。

そんな母の背中をみて育った神田さんは、中学1年生からキャディーのバイトを始めます。

土日の朝8時半には家を出て、9時に仕事をはじめて4時間くらいコースを回ったそうです。

仕事を通じて神田さんは「最初はにこにこしているけど、だんだん怒りっぽくなる人」かそうでないかを見抜けるようになったといいます。

確かに状態が悪くなったときや不利になったときほど、人間性は出ますからね。

15の職業を転々とする日々

中学校卒業後、神田さんは上板橋の町工場に勤めるものの2週間で辞めます。
なかさんはまったく責めず、むしろ喜んでいたといいます。

たしかに15歳の息子が家を出るとなると、母親からしてみれば寂しいものでしょう。

その後はホンダ(和光市)の工場でスーパーカブ製造にかかわり、働きぶりを認められて正社員に登用されます。

なかさんも「ホンダ社員になった」と喜んだものの、神田さんの飽き性が出て7カ月で辞めたときは寂しげな顔でこういったそうです。

「自分の人生なんだから好きなようにやりなさい」と。(「母の教えⅦ』148ページから引用)

その後はキャバレー、ゴルフ関連の仕事、パチプロと仕事を転々する日々。

それにしても、驚いたのがなかさんの動じなさですね。
普通であれば、家計が苦しいのに仕事をやめたと言ったら相当悲しむでしょう。

それでも「自分の人生だから」といって静かに見守るなかさん。
人間性も完成されすぎていて、とうていまねできないなと思ってしまいました。

転機

そんな神田さんに転機が訪れます。
浦和のラーメン屋にスカウトされてラーメンの奥深さに気づくのです。

掛け金で買ってきた食材が、料理と言う商品に代わってすぐに現金になることが面白かったとか。

一時期ホンダの工場で働いていましたから、神田さんも設備への投資について話は聞かされていたでしょう。

商売はすぐに利益が出ない、少し間が開くものだと思っていたら料理は違う。

商品を届けたらすぐにずっしりとした小銭を受け取れる。

そうした現金商売の面白さにのめりこんで懸命に働いたといいます。

その後岩槻のラーメン屋に誘われるも、うまく行かずお店はつぶれますが大家さんから「ラーメン屋を君がやったら」といってもらえて踏みとどまることになります。

運がいいことに、お店の近くに市役所があったので兄弟の手を借りて御用聞きと出前をして稼ぐことができたそうです。

しかも夜中の2時まで店を開けていたものですから、職人さんたちがこぞってやってくる、ということで繁盛したといいます。

もちろん順調なことばかりでなく、スナックの経営に失敗してラーメン屋を売るはめになったことも。

最大の転機

ここからが今の日高屋につながる最大の転機と言えましょう。

大宮の繁華街で偶然見かけた空き店舗。ここに神田さんはラーメン屋を出店します。

神田さんは今も、一等地に出店することで高い回転率と利益率をたたき出しています。
当時から良い土地を見る目は養われていたのですね。

繁華街に出店した「来々軒」は深夜まで働いている女性たちからの注文がたくさん来たそうです。

1人でさばききれなくなった神田さんはまた弟に声をかけて商売を続けていきます。

もし自分の子供が職を転々としていたら親は嘆きそうなものです。

なかさんは何も言わず、新しいお店を出すときだけ心配していたというのですからすごいです。
なかさんは神田さんを深く信頼していたのでしょう。

昔のラーメン屋は個人経営が当たり前だったので、上場するという時点でとんでもないスケールだったのですね。

まとめ

以上、神田さんの人格形成に影響を与えた、なかさんについて調べました。

自分の夫が働けなくなったと聞いたら絶望しそうなものですが、すぐさま仕事を始めて家計を支えるその男気には脱帽です。

なかさんは怒ることがなく、いつも穏やかだったといいます。

でも理不尽なこともたくさんあったでしょう。それをぐっと飲みこんで淡々と仕事をしていたのではないでしょうか。

こんな強いお母さんに育てられていたからこそ、神田会長は日々感謝を忘れず謙虚でいるのですね。

参考文献

『母の教えⅦ』

『ナンバーワン企業の儲けるしくみ』

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